2015年02月14日
秩父34観音巡り第4番札所金昌寺を参詣して
この日2月7日、第3番札所常泉寺より第4番札所金昌寺を参詣しました。
金昌寺は秩父市山田1815-2に祀られて居り、本尊は十一面観世音菩薩・


バスで秩父34観音巡りをして居た団体さんと一緒に成りました


金昌寺の資料によると江戸時代に裏山の念仏堂から金の鈴の音に唱和する念仏の声が山内にこだましたという伝承が「念仏の金昌寺」の由来との事
この寺には千三百余体の石像仏が傾斜にそって祀られて居て、其の多さには目を見張りました。参詣を済ませて次の第5番札所長興寺に向かいました。
金昌寺は秩父市山田1815-2に祀られて居り、本尊は十一面観世音菩薩・

バスで秩父34観音巡りをして居た団体さんと一緒に成りました



金昌寺の資料によると江戸時代に裏山の念仏堂から金の鈴の音に唱和する念仏の声が山内にこだましたという伝承が「念仏の金昌寺」の由来との事
この寺には千三百余体の石像仏が傾斜にそって祀られて居て、其の多さには目を見張りました。参詣を済ませて次の第5番札所長興寺に向かいました。
Posted by 林ちゃん at 06:37│Comments(4)
この記事へのコメント
バスからの参詣者の多さと、裏山の千三百余体の石像仏の多さ、ありがたさが伝わります。
「キャノン」が「観音」であったことに驚きましたが、「観音」、「観音様」とはいったい何者なのでしょう。
ネットで調べてもあと一つピンときません。調べてみれば仏教がわからないとその謂れがわからないことに気づきます。お寺に行っても、なかなか説明してもらえません。(私だけかもしれませんが、殆ど何のことかわかりませんでした)
通常、「観世音菩薩」といわれています。観はこれもよくわかりませんが、観ずることにしておきましょう。世音は世の全ての音、あるいは出来事でしょうか。この世は苦しく悲しいことが殆どです。この苦しく悲しいことを観じて済度する菩薩のことのようです。
不思議なことに、音は「耳」が担当します。いわゆる聴覚が関わります。その耳は音を聞きます。音がないところでは感じない器官です。
それなのに、音にはなっていない、耳には聞こえないはずの音を感じます。一番聞いてくれるのが母親ではないでしょうか。
ということで、観世音とは聞こえる音も、聞こえない音も聞いて下さるということなのではないでしょうか。
何やらわけの分からないこと言ってしまいました。
余計なこと申し上げてすみません。こんなことコメントしてよいのかどうかわかりませんが、お許しください。
まだまだ苦しみ、悲しみのたうち回っております庄野でございます。
よろしくご指導ください。
「キャノン」が「観音」であったことに驚きましたが、「観音」、「観音様」とはいったい何者なのでしょう。
ネットで調べてもあと一つピンときません。調べてみれば仏教がわからないとその謂れがわからないことに気づきます。お寺に行っても、なかなか説明してもらえません。(私だけかもしれませんが、殆ど何のことかわかりませんでした)
通常、「観世音菩薩」といわれています。観はこれもよくわかりませんが、観ずることにしておきましょう。世音は世の全ての音、あるいは出来事でしょうか。この世は苦しく悲しいことが殆どです。この苦しく悲しいことを観じて済度する菩薩のことのようです。
不思議なことに、音は「耳」が担当します。いわゆる聴覚が関わります。その耳は音を聞きます。音がないところでは感じない器官です。
それなのに、音にはなっていない、耳には聞こえないはずの音を感じます。一番聞いてくれるのが母親ではないでしょうか。
ということで、観世音とは聞こえる音も、聞こえない音も聞いて下さるということなのではないでしょうか。
何やらわけの分からないこと言ってしまいました。
余計なこと申し上げてすみません。こんなことコメントしてよいのかどうかわかりませんが、お許しください。
まだまだ苦しみ、悲しみのたうち回っております庄野でございます。
よろしくご指導ください。
Posted by 庄野勝久 at 2015年02月15日 10:32
庄野さん毎度コメント有難う御座います。
庄野さん観音についてコメントを記して有りますが、観音そのものを解説して居りますね。
観音は音を聞くのでもない、音を観るのである。音を観察し、あらゆる苦悩をも観すえる眼の持ち主のことである。
千手観音はたくさんの持物を、もっているけれども、それでも多くの手には持物を捧げていない。その多くの持物を持たない掌に眼が描かれて居た初期の千手観音の意味を、やはり理解する必要が有ろう。
観音は修行した結果、さとりの境地に到達した。その中には禅定の一つ「観」をも得たのであろう。そこか、凡俗な人間の姿を観察してみたとこいろ、あまりにも済度しなければならないことに眼を注ぎ仏になれることがきまってい、ながらもそれを避け、迷える人間のそばで、ともに悩み、ともに生活しよう、と永遠の疑視をつねに注ぎながら、すべての人間の一挙手一投足を観つづけていると云って良いであろう。
人間がともいすれば甘えようとすることをも冷静に観,時には怒り、ときには悲しみ、ときにはともにほほえみを浮かべながら眼をそらそうとしない。
いうならば観賞して居るのである。観て照らし続けて居るのである。
此処までは私が勉強して居る仏像入門書から書き取りました。
私も随分もがき苦しみましたが、「現在では生きて居る証しなのだと思って居ります。
庄野勝久様 後閑林司郎
庄野さん観音についてコメントを記して有りますが、観音そのものを解説して居りますね。
観音は音を聞くのでもない、音を観るのである。音を観察し、あらゆる苦悩をも観すえる眼の持ち主のことである。
千手観音はたくさんの持物を、もっているけれども、それでも多くの手には持物を捧げていない。その多くの持物を持たない掌に眼が描かれて居た初期の千手観音の意味を、やはり理解する必要が有ろう。
観音は修行した結果、さとりの境地に到達した。その中には禅定の一つ「観」をも得たのであろう。そこか、凡俗な人間の姿を観察してみたとこいろ、あまりにも済度しなければならないことに眼を注ぎ仏になれることがきまってい、ながらもそれを避け、迷える人間のそばで、ともに悩み、ともに生活しよう、と永遠の疑視をつねに注ぎながら、すべての人間の一挙手一投足を観つづけていると云って良いであろう。
人間がともいすれば甘えようとすることをも冷静に観,時には怒り、ときには悲しみ、ときにはともにほほえみを浮かべながら眼をそらそうとしない。
いうならば観賞して居るのである。観て照らし続けて居るのである。
此処までは私が勉強して居る仏像入門書から書き取りました。
私も随分もがき苦しみましたが、「現在では生きて居る証しなのだと思って居ります。
庄野勝久様 後閑林司郎
Posted by 林ちゃん
at 2015年02月15日 15:43

まことにありがたいお答えありがとうございました。
なんだか、まだまだ青臭いこといております。お笑いください。
なんだか、まだまだ青臭いこといております。お笑いください。
Posted by 庄野勝久 at 2015年02月15日 18:13
庄野さんお早うございます。毎度コメント有難う御座います。
私実は今日から三日間で神奈川県内の坂東三十三観音巡り九ケ寺の参詣に行く予定でした、天気予報によると十七日、十八日が天気が悪い様で、日帰りにて秩父三十四観音巡りに変更しました午前八時前に出掛ける予定です。
庄野さん、最近私のブログのアクセスカントが急に多く成り驚いて居ります先日765を記録した日も有りました。私の近くの人より庄野さんとの書きこみ合いに興味を持って見て居ると話して居ましたよ。
他人の悪口や批判以外は何でも書き込み合いは私は結構と思って居りますので其の様にご理解ください。
庄野勝久様 後閑林司郎
私実は今日から三日間で神奈川県内の坂東三十三観音巡り九ケ寺の参詣に行く予定でした、天気予報によると十七日、十八日が天気が悪い様で、日帰りにて秩父三十四観音巡りに変更しました午前八時前に出掛ける予定です。
庄野さん、最近私のブログのアクセスカントが急に多く成り驚いて居ります先日765を記録した日も有りました。私の近くの人より庄野さんとの書きこみ合いに興味を持って見て居ると話して居ましたよ。
他人の悪口や批判以外は何でも書き込み合いは私は結構と思って居りますので其の様にご理解ください。
庄野勝久様 後閑林司郎
Posted by 林ちゃん
at 2015年02月16日 06:09
