2016年03月11日
上毛カルタ巡り「にの編」
日本で最初の富岡製糸
先日富岡製糸に行って来ました。昨年正月に見学して居り世界遺産登録前ですが、アップした事が有ります。
この日はもう遅く成り入場出来ないかなと思いながら行きましたが5時までと云う事で入場出来ました。夕方なのに団体さんも次々に入場して居ました。
入場して見ると修復工事が幅広く行われて居り、見た目にも老朽化、劣化は良く解り、入場させながら修復工事をするのは大変だなと思い見て来ました。
何しろ広い敷地内に数々の劣化した建物が有るのですから維持管理は富岡市にとっても大変でご苦労な事と思います。






輸入された製糸機でなく母姉達が使って居た座繰りなども展示されて居り懐かしく見て来ました。



前回の見学料は5百円だっと思いました、今回は大人千円に成って居り、此の富岡製糸を維持管理して行くのですからこの料金は止むを得ないと思いました
富岡製糸場のあゆみ
1972年「明治5年」製糸場が動き出す
1833年「明治26年」光井家に払い下げされる
1902年「明治35年」原合名会社に経営が移る
1939年「昭和14年」原合名会社から片倉製糸紡績会社に経営が移る
1987年「昭和62年」工場が止まる
2005年「平成17年」国の史跡となり、管理がとみおかしに移る
2006年「平成18年」国の重要文化財になる
2007年「平成19年」世界遺産候補と成る
2015年「平成27年、世界遺産登録と成る
以上ガイドブックより書き移しました。
先日富岡製糸に行って来ました。昨年正月に見学して居り世界遺産登録前ですが、アップした事が有ります。
この日はもう遅く成り入場出来ないかなと思いながら行きましたが5時までと云う事で入場出来ました。夕方なのに団体さんも次々に入場して居ました。
入場して見ると修復工事が幅広く行われて居り、見た目にも老朽化、劣化は良く解り、入場させながら修復工事をするのは大変だなと思い見て来ました。
何しろ広い敷地内に数々の劣化した建物が有るのですから維持管理は富岡市にとっても大変でご苦労な事と思います。






輸入された製糸機でなく母姉達が使って居た座繰りなども展示されて居り懐かしく見て来ました。



前回の見学料は5百円だっと思いました、今回は大人千円に成って居り、此の富岡製糸を維持管理して行くのですからこの料金は止むを得ないと思いました
富岡製糸場のあゆみ
1972年「明治5年」製糸場が動き出す
1833年「明治26年」光井家に払い下げされる
1902年「明治35年」原合名会社に経営が移る
1939年「昭和14年」原合名会社から片倉製糸紡績会社に経営が移る
1987年「昭和62年」工場が止まる
2005年「平成17年」国の史跡となり、管理がとみおかしに移る
2006年「平成18年」国の重要文化財になる
2007年「平成19年」世界遺産候補と成る
2015年「平成27年、世界遺産登録と成る
以上ガイドブックより書き移しました。
Posted by 林ちゃん at 08:06│Comments(2)
│上毛カルタ巡り
この記事へのコメント
後閑様
貫前神社を通り過ぎれば、すぐ近くに富岡製糸があります。世界遺産になる前にな2,3度行きました。そんなに感激するほどもないところであったのが正直な感想です。小生の感度の悪さなのでしょう。
明治維新を起こしまして、明治の時代を迎えました。1868年のことです。それから5年(明治5年、1972年)、官営模範製糸工場として設立されています。おそらく世界一の大工場だったのでしょう。天皇陛下まで見学に来られたのではないでしょうか。
当時の日本国のスローガンは、「殖産興業」であり、「富国強兵」でした。これを目指して一致団結して突き進みました。残念ながら、第二次世界大戦で敗戦国となり、「富国強兵」は消されました。
戦後は「富国富国」がスローガンになったとしか思えません。価値からみれば、あまり上等なスローガンではないと思いますがネ。
その当時の日本は、輸出するものは「生糸」と「お茶」ぐらいなもので、その二つで外貨を稼いでいたといってもいいでしょう。だから、この富岡製糸の力は、国家を背負っていたといってもよいのではないでしょうか。
それから32年、1904年(明治37年)、日本は当時世界一の大国であったロシアと戦火を交えます。あの明治維新から37年しかたっていないのに、世界一の大国と戦争を始めたのだから驚きです。
「日露戦争」を始めた経済力は、なんと「生糸」と「お茶」で稼いだお金だったのではないでしょうか。とすると、この富岡製糸が大国ロシアをやっつけてくれたといってもいいのではないでしょうか。
それにしても歴史というものの不思議さを思わざるを得ません。戦後(昭和20年)を明維持維新時とすれば、その32年後、昭和52年に再度大戦争を起こしたのと同じことになります。
そんな足腰の強さはありませんでしたね。ただただ、ゼニゼニといって駆けずり回ってきたとしか言いようがありません。それが平和であったというのであればそれでいいのかもしれませんが、現在の日本の状態は、何とも言いようのない淋しさを感じるのは私だけでしょうか。
富岡製糸設立の頃の、日本国家をいかに「立派な国」にするかという高邁な情熱がないように思います。(私が一番不甲斐ないようで、申し訳ございません)
富岡製糸を訪ね、その前に立ってあまり感激しなかったといいましたが、よく考えてみると、私個人としては、大いに反省するところがあります。そういうことを思い起こさせてくれるところであったのですね。
今回も余計なこと書きこんでしまいました。失礼いたしました。
貫前神社を通り過ぎれば、すぐ近くに富岡製糸があります。世界遺産になる前にな2,3度行きました。そんなに感激するほどもないところであったのが正直な感想です。小生の感度の悪さなのでしょう。
明治維新を起こしまして、明治の時代を迎えました。1868年のことです。それから5年(明治5年、1972年)、官営模範製糸工場として設立されています。おそらく世界一の大工場だったのでしょう。天皇陛下まで見学に来られたのではないでしょうか。
当時の日本国のスローガンは、「殖産興業」であり、「富国強兵」でした。これを目指して一致団結して突き進みました。残念ながら、第二次世界大戦で敗戦国となり、「富国強兵」は消されました。
戦後は「富国富国」がスローガンになったとしか思えません。価値からみれば、あまり上等なスローガンではないと思いますがネ。
その当時の日本は、輸出するものは「生糸」と「お茶」ぐらいなもので、その二つで外貨を稼いでいたといってもいいでしょう。だから、この富岡製糸の力は、国家を背負っていたといってもよいのではないでしょうか。
それから32年、1904年(明治37年)、日本は当時世界一の大国であったロシアと戦火を交えます。あの明治維新から37年しかたっていないのに、世界一の大国と戦争を始めたのだから驚きです。
「日露戦争」を始めた経済力は、なんと「生糸」と「お茶」で稼いだお金だったのではないでしょうか。とすると、この富岡製糸が大国ロシアをやっつけてくれたといってもいいのではないでしょうか。
それにしても歴史というものの不思議さを思わざるを得ません。戦後(昭和20年)を明維持維新時とすれば、その32年後、昭和52年に再度大戦争を起こしたのと同じことになります。
そんな足腰の強さはありませんでしたね。ただただ、ゼニゼニといって駆けずり回ってきたとしか言いようがありません。それが平和であったというのであればそれでいいのかもしれませんが、現在の日本の状態は、何とも言いようのない淋しさを感じるのは私だけでしょうか。
富岡製糸設立の頃の、日本国家をいかに「立派な国」にするかという高邁な情熱がないように思います。(私が一番不甲斐ないようで、申し訳ございません)
富岡製糸を訪ね、その前に立ってあまり感激しなかったといいましたが、よく考えてみると、私個人としては、大いに反省するところがあります。そういうことを思い起こさせてくれるところであったのですね。
今回も余計なこと書きこんでしまいました。失礼いたしました。
Posted by 庄野勝久 at 2016年03月11日 14:24
庄野さん毎度コメント有難う御座います。
何時もながらのコメントの書き込み有難うございます。今回の書き込みもうなずきながら読みました。生糸には私も多く思い出があります。繭の生産に従事した事が有りますので。
庄野勝久様 後閑林司郎
何時もながらのコメントの書き込み有難うございます。今回の書き込みもうなずきながら読みました。生糸には私も多く思い出があります。繭の生産に従事した事が有りますので。
庄野勝久様 後閑林司郎
Posted by 林ちゃん
at 2016年03月12日 11:12
