2016年01月15日
上毛カルタ巡りろの編
「老農船津傳次平」
老農とは、農業技術の改良や普及に努めた優れた農業指導者の事を云うそうで正に傳次平翁の業績は素晴らしく老農である。
群馬県から毎年農業に貢献卓越した指導者を毎年一人に船津賞が授与されて居ます。
昨年平成27年には私が住む隣の後閑岩男氏が船津賞を授与されて居ります。首都圏では農業県群馬が誇る人物で現地に行っても彼の残した業績の効果が出て居るとお聞きしました。
先日私は一番に前橋市富士見支所を尋ねましたが振興課の対応は誠に親切で支所前には富士見村百周年記念に船津翁の像が建立され時の村長さんの書により大きな石碑も建立されて居ました。船津翁のお墓道順、横室の大かやの場所も地図をコピーして印までつけて呉れたので直ぐ解り大助かりでした。富士見支所振興課の皆さん誠に有難う御座いました。

支所前に建立されて居た舟津翁の像安物のデジカメで日陰で上手く撮れなかった。



舟津翁のお墓案内通りに行き直ぐ解った。旧富士見村でもカルタが有り、明治の老農船津翁と詠まれて居ります。お参りを済ませ教えて戴いた横室のかやの大木も見て来ました。支柱で支えて有りましたが余りの大きさに驚きました




老農とは、農業技術の改良や普及に努めた優れた農業指導者の事を云うそうで正に傳次平翁の業績は素晴らしく老農である。
群馬県から毎年農業に貢献卓越した指導者を毎年一人に船津賞が授与されて居ます。
昨年平成27年には私が住む隣の後閑岩男氏が船津賞を授与されて居ります。首都圏では農業県群馬が誇る人物で現地に行っても彼の残した業績の効果が出て居るとお聞きしました。
先日私は一番に前橋市富士見支所を尋ねましたが振興課の対応は誠に親切で支所前には富士見村百周年記念に船津翁の像が建立され時の村長さんの書により大きな石碑も建立されて居ました。船津翁のお墓道順、横室の大かやの場所も地図をコピーして印までつけて呉れたので直ぐ解り大助かりでした。富士見支所振興課の皆さん誠に有難う御座いました。

支所前に建立されて居た舟津翁の像安物のデジカメで日陰で上手く撮れなかった。



舟津翁のお墓案内通りに行き直ぐ解った。旧富士見村でもカルタが有り、明治の老農船津翁と詠まれて居ります。お参りを済ませ教えて戴いた横室のかやの大木も見て来ました。支柱で支えて有りましたが余りの大きさに驚きました




Posted by 林ちゃん at 04:37│Comments(2)
│上毛カルタ巡り
この記事へのコメント
後閑様
老農、船津伝次平がいかに偉かったのかは、今の教育制度では分からないでしょう。農業をあまり重視しない教育だからです。
楫取素彦が時の最高の権力者であった大久保利通に、船津を推奨したことは有名でありますし、年末に終わったNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の中で紹介されました。
明治維新後の日本では人口増加もあって、食糧増産は国家の急務であったといわれます。農業が重視されました。外国の農法に目を向けたのは当然であって、明治政府はイギリスの大農場の方式を導入することになったようです。
しかし、この農法は日本では合わず机上の空論として取り入れられなくなったそうです。その代り政府が採用する農法は従来の経験にのっとった方法になります。
このとき農書に基づき本格的に農業を研究し、明治期の初期の指導的立場にあった人たちを「老農」と呼びました。ただ、今まで通りの方法から、折角学んだ外国の実証主義的な方法も取り入れます。
明治の三老農といわれるのが、奈良県・中村直三(1819~1882)、香川県・奈良専二(1822~1892)、そして群馬・船津伝次平(1822~1892)でした。
特に船津伝次平の功績は大きいといわれております。固有農法+西洋農法の混合農法ともいわれたそうです。「性に従う」から「性を率いる」農法の優位性を示したともいわれております。東京駒場の農業学校、現在の東大農学部の礎を作った人でもあります。
当時明治期の農業は、メンデルの法則を思わせる種子の改良など、積極的な農業政策が展開されております。種子交換会などを見ても、いかにこの国の農業を盛んにし、国民をあげて協力し合おうとしたことか、よくわかります。
それが、現在の社会では、グローバル企業であるモンサント社などごくわずかな大企業が、野菜の種子を独占しようとしております。世界中では食糧難で餓死者が出ているというのに、種子を独占し、天文学的な利益を得ようとしております。明治期のわが国の「老農」の考え方とは全く違いました。わが国では、いかに多くの人を救うかに心血を注いだのです。
農業本来の使命は、このように人々を救うことにあるはずなのに、独り占めにして利益を独占し、金のないものには種を売らないという立場に立ってしまいました。明治期の三老農の爪の垢でも飲んで貰いたいものです。
船津伝次平については、もっともっと教えてもらいたいところです。富士見町の商工会などもかなり力を入れて船津伝次平を宣伝していますが、おひざ元の前橋市もあまりピンと来ていません。ましてすぐ隣の高崎市は、さっぱり他人ごとのようです。農業の大事さと、船津伝次平がいかに優れた人であり、群馬の最高に誇れる人であるか、知らしめてほしいものです。
群馬で知らなければ、他の県では全く無名となります。
というようなことを学びました。
私事ながら、昨夜は結局何から何までお世話になりっぱなしでした。ありがとうございました。これからもよろしくご指導願います。
老農、船津伝次平がいかに偉かったのかは、今の教育制度では分からないでしょう。農業をあまり重視しない教育だからです。
楫取素彦が時の最高の権力者であった大久保利通に、船津を推奨したことは有名でありますし、年末に終わったNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の中で紹介されました。
明治維新後の日本では人口増加もあって、食糧増産は国家の急務であったといわれます。農業が重視されました。外国の農法に目を向けたのは当然であって、明治政府はイギリスの大農場の方式を導入することになったようです。
しかし、この農法は日本では合わず机上の空論として取り入れられなくなったそうです。その代り政府が採用する農法は従来の経験にのっとった方法になります。
このとき農書に基づき本格的に農業を研究し、明治期の初期の指導的立場にあった人たちを「老農」と呼びました。ただ、今まで通りの方法から、折角学んだ外国の実証主義的な方法も取り入れます。
明治の三老農といわれるのが、奈良県・中村直三(1819~1882)、香川県・奈良専二(1822~1892)、そして群馬・船津伝次平(1822~1892)でした。
特に船津伝次平の功績は大きいといわれております。固有農法+西洋農法の混合農法ともいわれたそうです。「性に従う」から「性を率いる」農法の優位性を示したともいわれております。東京駒場の農業学校、現在の東大農学部の礎を作った人でもあります。
当時明治期の農業は、メンデルの法則を思わせる種子の改良など、積極的な農業政策が展開されております。種子交換会などを見ても、いかにこの国の農業を盛んにし、国民をあげて協力し合おうとしたことか、よくわかります。
それが、現在の社会では、グローバル企業であるモンサント社などごくわずかな大企業が、野菜の種子を独占しようとしております。世界中では食糧難で餓死者が出ているというのに、種子を独占し、天文学的な利益を得ようとしております。明治期のわが国の「老農」の考え方とは全く違いました。わが国では、いかに多くの人を救うかに心血を注いだのです。
農業本来の使命は、このように人々を救うことにあるはずなのに、独り占めにして利益を独占し、金のないものには種を売らないという立場に立ってしまいました。明治期の三老農の爪の垢でも飲んで貰いたいものです。
船津伝次平については、もっともっと教えてもらいたいところです。富士見町の商工会などもかなり力を入れて船津伝次平を宣伝していますが、おひざ元の前橋市もあまりピンと来ていません。ましてすぐ隣の高崎市は、さっぱり他人ごとのようです。農業の大事さと、船津伝次平がいかに優れた人であり、群馬の最高に誇れる人であるか、知らしめてほしいものです。
群馬で知らなければ、他の県では全く無名となります。
というようなことを学びました。
私事ながら、昨夜は結局何から何までお世話になりっぱなしでした。ありがとうございました。これからもよろしくご指導願います。
Posted by 庄野勝久 at 2016年01月15日 16:06
庄野さん毎度コメント有難う御座います。 毎度の事ながら庄野さんの博識振りには本当に頭の下がる思いです。 こうして現役時代、忙しさと云う隠れ蓑で勉強しなかった小生、パソコン習得のお蔭で昨年は自分の運転で坂東33観音巡りと秩父34観音巡りを結願に持ち込め、更に今年は上毛カルタ巡りを計画、巡り始めたばかりですが、こうして庄野さんより書き込みを戴き勉強させて戴ける事に大きな感謝です。求めて居る群馬学が身に着きます。此れからも無知の小生、ご指導の程お願いします。
先日は二人だけの新年会本当に楽しく、気がついたら三時間以上経過していましたよね楽しかった証拠では有りませんか。誠に有難う御座いました。此れからもたまには食事会やりましょうよ。宜しくお願いします。
庄野勝久様 後閑林司郎
先日は二人だけの新年会本当に楽しく、気がついたら三時間以上経過していましたよね楽しかった証拠では有りませんか。誠に有難う御座いました。此れからもたまには食事会やりましょうよ。宜しくお願いします。
庄野勝久様 後閑林司郎
Posted by 林ちゃん
at 2016年01月16日 12:58
