2016年02月04日
上毛カルタ巡り「むの編」其の二
上野三碑の山上碑を見学
此処でも風化劣化を防止する為建物で石碑は保護されて居り、ガラス越しの見学でスイッチを入れると灯が点き良く見えました。此処では資料館は無く多古碑記念館から戴いて来た資料によると『681年<辛巳』に建てられ,完存するものに限れば日本最古の石碑として知られる。
碑文は隣接する山上古墳に埋葬された佐野三家「さののみやけ」を管理した豪族の子女である黒売「くろめ」とその子である長利「ちょうり」の系譜を述べたもの」と記して有ります。




建物に覆われた山上碑と口の空いて居た古墳が並んで居ました。


上りに余りにも階段の段数が有ったので下りには段数を数えながらゆっくり下りました。木道に辿り着くまでに石の階段は百七十五段有りました。でも不思議にも膝の痛さは感じませんでした。有り難い事でした。
此処でも風化劣化を防止する為建物で石碑は保護されて居り、ガラス越しの見学でスイッチを入れると灯が点き良く見えました。此処では資料館は無く多古碑記念館から戴いて来た資料によると『681年<辛巳』に建てられ,完存するものに限れば日本最古の石碑として知られる。
碑文は隣接する山上古墳に埋葬された佐野三家「さののみやけ」を管理した豪族の子女である黒売「くろめ」とその子である長利「ちょうり」の系譜を述べたもの」と記して有ります。




建物に覆われた山上碑と口の空いて居た古墳が並んで居ました。



上りに余りにも階段の段数が有ったので下りには段数を数えながらゆっくり下りました。木道に辿り着くまでに石の階段は百七十五段有りました。でも不思議にも膝の痛さは感じませんでした。有り難い事でした。
Posted by 林ちゃん at 07:00│Comments(2)
│上毛カルタ巡り
この記事へのコメント
後閑様
上野三碑は、日本の歴史上本当に貴重な資料ではありませんか。なぜ
大和朝廷のど真ん中から、こんな遠い上州に存在するのでしょうか。
不思議な気がします。大和朝廷の中央とどんな関係だったのでしょう。
「碑」という習慣は、日本国内にはないものと思われます。とすると、大陸中国の
あるいは、朝鮮からの文化を持ち込んだ人たちだったのでしょうか。
それも相当文化の高い人たちの集団がいたことになります。中央と遜色のない集団だったのでしょうか。はるかに遠い時代のことが中国、朝鮮、大和朝廷、と大きな空間でのドラマを感じます。
上野三碑は、日本の歴史上本当に貴重な資料ではありませんか。なぜ
大和朝廷のど真ん中から、こんな遠い上州に存在するのでしょうか。
不思議な気がします。大和朝廷の中央とどんな関係だったのでしょう。
「碑」という習慣は、日本国内にはないものと思われます。とすると、大陸中国の
あるいは、朝鮮からの文化を持ち込んだ人たちだったのでしょうか。
それも相当文化の高い人たちの集団がいたことになります。中央と遜色のない集団だったのでしょうか。はるかに遠い時代のことが中国、朝鮮、大和朝廷、と大きな空間でのドラマを感じます。
Posted by 庄野勝久 at 2016年02月04日 09:49
庄野さん毎度コメント有難う御座います。
仰せの通り、我が群馬高崎市に上野の三碑が如何して建立されたのか、遠い昔に思いを馳せて見ますと大きなドラマですね。学者も種々研究されて居るようですが。
庄野勝久様 後閑林司郎
仰せの通り、我が群馬高崎市に上野の三碑が如何して建立されたのか、遠い昔に思いを馳せて見ますと大きなドラマですね。学者も種々研究されて居るようですが。
庄野勝久様 後閑林司郎
Posted by 林ちゃん
at 2016年02月05日 07:07
